ここに取り上げたのは、徒然草52段の仁和寺にいたある法師が、久しく訪れたいと思っていた石清水八幡宮を参拝したときの話です。全文を載せておきます。 仁和寺にある法師、年よるまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、ただひとり、徒歩よりまうでけり。極楽寺・高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。さて、かたへの人にあひて「年ごろ思ひつること、はたし侍りぬ。聞きしにも過ぎて、尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。 大体の意味するところは、次の通りです。 仁和寺にいた法師が、長年思っていた石清水八幡宮にお参りを果たし、帰ってきてお仲間に、そのときの様子を話します。「石清水八幡宮様は、聞いていたよりも尊いところでした。それにしても、参拝する人が皆、山へ登って行くのは何事かあったのでしょうか、なんとなく知りたいと思ったのですが、神様に参ることが本来の目的でしたから、山の上までいってきませんでした。」 旅行していて、特に、最近はお寺めぐりをすることが多くなって、仁和寺の法師と同じような経験をすることがあります。この間もこんなことを経験しています。近畿三十六不動の七番札所の国分寺を参拝したときでした、護摩堂に本尊不動明王と並べて、みのり不動尊の名前がありました。てっきりこの堂の中に2体のお不動様がいらっしゃるものと思ってお参りしてきました。実は、みのり不動尊は、この堂の裏に回ったところにいらっしゃる石仏であることが、後で分かったということがありました。 2007年4月26日記 |