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同じ意味でも
 
 同じものを表現するにも、地域によって違ったり、その言葉が使われだした時代背景が違ったりすることで、別の呼び方になっているものがある。ここには、気がついた言葉をそれなりに取り上げてみました。充分に考証して書いているわけではないので、中には間違っていることも書いているかもしれません。
 難しく評価をしないでお読みいただきたく思います。武田鉄矢の「贈る言葉」をもじって「話す言葉」とタイトルしました。
 
東京と大阪 東京と大阪で物言いが違うことがある
時代背景に依る物の名前の変遷 時・場所・場合で言葉の伝わりかた、使われ方が違うことがある。
気になる用法 この言い方ってあっているの?
話せたらいいな 海外旅行をしたとき、外人に道を聞かれたとき、話せたらいいなと思う。
 
☆東京と大阪☆
 ここで言う大阪・東京は関西・関東圏というのが正しいのか、それとも西と東ではというほうが正しいのか、その考察はしていません。大まかに大阪ではこう東京ではこうというアバウトな地域分けでしかないことを断っておきます。

マクドとマック
 あのファーストフードの店が大阪ではマクドであって、東京ではマックと呼ばれる。どちらかと言えば大阪のほうが野暮ったい表現で、東京のほうがスッキリしているといえば誤解があるのだろうか。最近では大阪のほうでも土日(どにち)という表現を耳にするが、それまでは「今週の土日(どーにち)に何処かに行く?」などと会話していたように思う。どう考えても「どーにち」の方が野暮ったいように思う。
 ファーストフードの店にケンタッキーとミスタードーナツがあるが、これについてはどうなのであろうか。ケンタ、ミスドは東西ともこう呼ぶのでしょうか。
  私が勤めていた会社で大阪・東京で共に修理工場を持っていた。組織表で大阪修理工場・東京修理工場となっていたが、そのうち呼称が変化して行き次のように変って行きました。東京のほうである時からリペアショップと呼ぶようになりました。そこで、大阪でもリペアショップとあらためて呼ぶようにしていると、今度はトレーニングセンターと呼称が変わりました。
 以前から修理工場で新入社員の技術講習もしていたわけですから、内容が特にトレーニングセンターになったわけでもないのです。大阪のほうでもそれならトレーニングセンターにするかと言うことにしましたが、更に東京ではTTC(東京トレーニングセンター)に改称です。大阪でも遅ればせながらOTCになったということがありました。
 この例を見ても、大阪のほうがちょっと野暮ったいかなと思ってしまう。でも、実態が肝心なんですよね、中身が。

きつねうどんとたぬきそば
 大阪ではきつねうどんのことを「けつねうどん」とも言う。しかし、ここでの話はけつねうどんとは関係がなくて、たぬきそばときつねうどんの関係を考えてみる。言うまでもなく、きつねうどんは甘く煮た油揚げをうどんの具にしたものである。なぜ油揚げがきつねうどんの具なのか、これは狐の好物の油揚げを稲荷に供える風習から来るわけです。稲荷ずしを思い出していただくと成程とうなずける筈です。
 ということなら、たぬきそばは何が具に入っているのとなります。意外なことに大阪で注文すると、甘く煮た油揚げをのせたそばが出てくるわけです。大阪に住んでいる人にしたら何が意外なの?と思われます。しかし、狐の好物油揚げがきつねうどんの具の由来なら、たぬきそばにはたぬきの好物の何かが具として乗っていなければ、やはり意外性がは払拭しません。現に、東京ではたぬきそばには油揚げではなく揚げ玉(大阪で言うてんかす)が具になっていますし、きつねそばというのもあって、こちらには理屈通りに油揚げが具として載せられています。同じような理由で、たぬきうどんも存在するわけです。これから判断すると、東京のほうが合理的なネーミングのような気がしませんか。
 大阪でたぬきうどんを注文するとどういうものが出てくるのか、うどんとそばを丼に入れその上に、油揚げを甘く煮たものが通常の倍のっているのでしょうか。きつねそばを注文するとどうなるのでしょうか。    

 これは後日談です。平成19年4月28日京都四条大宮で食事をしたとき、店のメニューに、きつねうどんときつねそばの表示がありました。京都には「きつねそば」があるんです。これは、この店だけのことなのか、京都では一般的にそうなのでしょうか。

目え痛いから目医者に行く
 目え痛いから目医者に行くことってありますね。歯あ痛いときは歯医者に行きます。これって極自然なんですね。ところが、あるときに東京の人に、「なぜ、目え痛いときに目え医者に行かないんですか」と言われて、目からうろこが落ちた気がしました。いや、正調大阪流で言うなら目えからうろこが落ちるなのでしょうか。
 東京のほうでは、目が痛え、歯が痛えなんです。だから、目医者に行き、歯医者に行くのですね。先のたぬきそばの話と同じように理にかなっている。
 言葉の使い方の問題ではないのですが、言われてみればそうなんだと思ったことを思い出しました。もう40年も前の話で、今の食文化から判断するとちょっとよい例ではないですが、天婦羅にソースをかけていたら、天婦羅には醤油でしょう、ソースはフライにかけるもの、といわれました。そういえば、一般的には大阪では、天婦羅とフライに区別して使い分けをしていなかった。

冷コー(れーこー)
 今はもう死語となってしまった感がある。ホット(コーヒー)に対してのアイス(コーヒー)のことである。昭和44年8月11日(古い話です)に出張で沼津に行ったときのことです。喫茶店に入って「冷コー」を注文したら、怪訝な顔をされてしまった。一瞬、なんでとおもい、すぐに気が付いてアイスコーヒーといい直した。あちこち出張していたが沼津には始めてきた。ここは関東圏(東京に近い)なんです。アイスコーヒーと冷コーではやはり野暮ったさにおいて大阪の負けである。
 今の時代、東西の人事交流も進んでいること、コーヒーなどを提供する全国規模のチェーン店などが増えてきたことがあって、アイス(コーヒー)が定着しているから、先に書いたように冷コーは殆ど死語になっている。その代わり、ブレンド、アメリカン、エスプレッソ、エスプレッソ・コンパーナ、カプチーノ、カフェ・ラテ、クラシックバニラ・ラテだのコーヒーのメニューが多くなってきた。年寄りのおじさんには違いが分かるコーヒーだけにして欲しい。
 東京と大阪の比較のことから少し離れるが、こんなことがあった。これも古い話で申し訳ないのですが、沖縄へ旅行したときです。まだ、本土復帰を果たせていない昭和39年の12月のことです。食堂に入って水をくださいとお願いしたときの状況です。旅行記の文章をそのまま載せてみました。 

 「水を下さい」というと「アイスワラーですね」とくる。「水です」というと「アイスワラーと水と同じですよ」とくる。「そしたらそれ下さい」女の娘は大きな声で笑いながら水をだしてくれる。「沖縄ではアイスワラーというんですか」ともう一度いうと、またおかしそうに笑う。なんておかしな言葉かとよく考えてみると、アイスウォーターがアイスワラーとなって発音されている。・・・・さすがにコザは基地の街だと思った。

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☆時代背景に依る物の名前の変遷☆
 物の名前は、その使われるときの時代を繁栄したり、発生のときの状況によって、所謂、時(TIME)場所(PLACE)状況(OCCASION)に応じて決まったり、変遷したりする。このように、そのときの時代背景によって物の名前が簡略化されたり、元の本来の意味をを失ってしまって、一人歩きしているものがある。色々な場合について、思いつくままに書いてみます。

携帯で通じる
 このタイトルの意味するところは、携帯で電話が通じることを表現したわけではありません。「携帯」が携帯電話を意味しているということが世間一般に通じるという意味でタイトルにしたのです。しかし、「携帯」で携帯電話を意識してしまうということは、携帯と言う言葉が携帯電話を意味していて、完全に置き換わっていることの証左でもあります。携帯電話が世に出て今日のように普及するまでに、高々10年くらいのことです。しかしこの短い期間において、「携帯」で通じてしまうようになったことに聊かの驚きを感じてしまいます。
 家の中でも使うけれど携帯しても使うものには、時計が同じような立場にあります。柱時計、置時計などに対しての腕時計がそれです。ならば何故これを携帯電話同様に普及している今、「腕」で通じないのでしょう、「携帯」で携帯するいわゆる腕時計として通じないのでしょう。また、携帯して使用する時計に懐中時計と言うのもあります、「懐中」と言うだけで誰も懐中時計のことだとは思いもしません。まあ、それ程普及していないから、それはそれで当たり前のことかもしれません。
 携帯電話の普及が台数の問題だけでなく、メディアに取り上げられる機会の多いこと、携帯電話の使用頻度が高いこと、携帯電話の多機能性、携帯電話が犯罪に加担する、使用する人のマナーを云々されることなど社会現象化していくたびに、携帯電話を「携帯」で置き換えても通じるようになってしまった時代背景が影響しているからではないかと思われます。
 最近面白い標示を見つけました。「この車両は携帯をOFFにしてください。」これは、携帯電話の電源をOFFにするという元の文章から、電話と言う言葉と電源と言う言葉が省略されてしまっています。
 昔から、言葉が短縮されてしまって通じるようになっているものはこのほかにも沢山あります。外国からの輸入文化の中にそれが多いようです。デパート、アパート、パーマ、テレビなど言葉の後半部分が省略されています。それぞれデパートメントストア、アパートメントハウス、パーマネントウエーブ、テレビジョンが正規の呼び方なのでしょうか。携帯電話の本来そのものの機能を表す電話と言う言葉が省略されていることと同じと言えます。さしずめ携帯電話の場合は、セルラーホーンがセルラーと短縮されてホーンが省略されている状況にあたります。    

電気テレビ
 誰も、電気テレビとは言いません。電気式でないテレビが存在しないからです。これだけの説明で、電気テレビというネーミングがないことを納得できますでしょうか。電気洗濯機はどうでしょうか、電気式でない洗濯機と言うものがあったことを知りません。盥(たらい)だとか洗い桶、川原の共同洗濯場があっても、これは決して機械といえる洗濯用具ではないと思います。なのに電気洗濯機と呼ばれ今も健在です。試しにインターネットで「電気洗濯機」で検索してみますと、メーカーのホームページにヒットしますし、日本電機工業会と言うサイトにもアクセスします。電気掃除機もほぼ同じように考えられます。箒(ほうき)はどう考えても機械ではない様におもいます。
 ここで言うところの電気**の電気の意味は、電気によって作動する、またはその機能を発揮することをあらわしていて、そのことが今までの道具に置き換わって、電気で機能することが画期的な意味を持つがゆえに、電気式の洗濯機であり、電気式の掃除機なのです。その結果の、電気洗濯機、電気掃除機と言うネーミングに落ち着いたのでしょう。そろそろ、洗濯機、掃除機で済ませてもいいのにとおもいます。
 氷で冷やす冷蔵庫逆に、アイロンのことをあまり電気アイロンと呼ぶ機会が少ないように思います。スチームを発生する機能をもった物を、スチームアイロンと呼んでいるほうが多いようです。電気式アイロンが普及するまでには、簡単な道具として、和裁で使用していたコテと言うものがありましたし、今のアイロンとほぼ同じ形状で炭火で加熱して使う電気式でないアイロンがあったわけですから、そんな意味から、アイロンの場合こそ電気アイロンと言うネーミングにこだわるべきではないのでしょうか。    

 文章が、冷蔵庫について間で及んでいなかったので追加で書いてみます。先日、冷蔵庫を見る機会があった。冷蔵庫を見る機会などいつでもあるはず?なのは、実は電気冷蔵庫の場合で、氷を使って食品を保存する冷蔵庫は見る機会がなくなっている。
 なぜ現在普及している冷蔵庫が、電気冷蔵庫と呼ばれないのかは、電気洗濯機、電気掃除機とまったく逆の現象である。氷を使って食品を冷蔵する冷蔵庫が使われていたのであるから、今の冷蔵庫は正しく電気冷蔵庫である。アイロンと同じ立場にある。
 考えてみれば、電気式でない冷蔵庫も、アイロンも、現在人の中でその存在をしる人が少なくなってきているからなのではないかと考えられます。
     

コップで水を飲みグラスをかたむける
 日常の生活用品の中にしっかりと取り込まれていて、その物の日本語訳すらない、またはその必要がないものが結構あるものです。その物(言葉)が日本人の生活に馴染んできた時代によって、その伝わり方が違ったため同じ物でも違って日本語化(外来語化)しているものがあります。私たちはコップで水を飲むといいます。このときのコップは紙製品のコップであったりガラスのコップであったりします。同じガラスで出来ていても、スナックで洋酒などを飲むときには、グラスとなります。ガラスとグラスは今も適当な使い分けがされています。
 ちょっとややこしくなりますが、グラスと呼ぶと材質を意味するよりも、製品のイメージになります。容器としてのグラスであったり、サングラスのグラスであったりします。ガラスのほうは材質そのものの意味に使われて、ガラスのコップ、ガラス窓と単にガラスだけでは、そのものの材質を呼ぶ意味になっています。
 コップとカップも共に容器ではあっても違った使われ方をしています。もちろん、コップ(KOPオランダ)とカップ(CUP英語)は違うものなのでそれはそれでいいのでしょうが、次のような例では、呼び換えていても物は同じような気がします。自販機からコーヒーを買うと紙コップに入って出てきますが、これってカップラーメンの容器と同じ形状の紙の容器ですよね。さすがに優勝カップとは呼んでも優勝コップとは誰も言いませんけれども。
 こんどはミシンについて考えて見ます。足踏み式のミシンはもうなくなりましたが、今は新しい機能を色々搭載した電動いや電子ミシンの時代です。機能がどんどん新しくなっていくのに、ミシンの呼び方は昔のままなんです。「携帯で通じる」のところで言葉が略されて根付いている例を書きました。じつは、ミシンもそのひとつなんです。ただ、携帯、デパートなどの例と違っているのは機能本来の部分が残って、限定する部分がなくなっている例です。ソーイングマシーン(縫う機械)のマシーンが残ってミシンに転訛しています。同じようにマシーンでも新しい時代(英語名の文化が進んできた時代)に輸入されてくると、マシーンと比較的正しい発音で根付くんです。ル・マンを疾走する車はメカニックスタッフにとっては正しくレーシングマシーン(レース用の機械)なんです。レーシングミシンだとちっとも早く走れそうな気がしません、むしろジグザグに走りそうな気がします。
 アイロンはどうでしょうか、鉄を意味するIronが洗濯物などをプレスするアイロンと同じIronであるのはちょっと驚きですが、このIronがアイロンと読まれて今に至っているのです。同じIronでも1番ウッド4番アイアンなどと言うときの、金属製ヘッドのついたゴルフクラブの場合は発音に忠実にアイアンと読まれています。ミシンとマシーンの例と同じです。   

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☆気になる用法☆

 その言葉の使い方って少しおかしくないのと、見聞きしてふと疑問を持つことがあります。そんな言葉について書いてみます。書き進めるうちに、実はそうだったのかと自分で気付かなかった事を発見することもあるかもしれません。最近気になるしゃべり方に「全然平気ですよ」と全然に否定形を伴わないしゃべり方があります。調べてみれば、これはこれで全然OKだと言うことです。言葉は生きているといわれます、その結果で別な言い回しが正規の言い回しと置き換わっていく変遷があるようです。    

バラエティーに富んだ
 バラエティーはもともと、変化に富むこと、単調でないこと、多様性と云う意味をもつ名詞です。バラエティーに富んだ番組などと、バラエティーの後にさらに富んだを付けくわえる必要はない。バラエティー番組、バラエティーショーでその番組やショーがいろいろな内容を持っていることを示している。
 なのに、バラエティーに富んだ○○という表現が使われて、これがいろいろなメディアから発信されている。特に、目くじらを立てて云う程のものではないけれども、気になる言葉の使い方であることには違いないと思っている。これと同じような例はたくさんあって、一泊泊まりの旅、伝言を伝える、一月元旦などが日常会話に頻出して起こっている。因みに、「一泊泊まり」をキーワードにして検索してみると、グーグルサイトで820件、ヤフーサイトで1260件のヒットがあって、日常会話の用法そのままの文書が書かれています。
 「バラエティーに富んだ」に至っては、それぞれ127万件、84万件もヒットして、バラエティーに富んだという表現を避けて文書化する方が不自然な文章になるとでも云うのか。バラエティーに富んだ食材を使って調理する、と云うのをバラエティーな食材を使って調理するとしたほうが不自然なのだろうか。
 子供のころのことば遊びに、「むかしむかしのずっと前、男の武士のさむらいが、馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑われて、赤くなって赤面し、家に帰って帰宅して、小さい刀の短刀で、腹を切って切腹し、とうとう死んで亡くなった。」(ことば遊びの楽しみP172,阿刀田高著)と云うようなものがあったことを覚えている。これなどは、同じ事を重複して云う事を揶揄することば遊びだったのではないか。これを、矛盾文と云う呼び名があるらしいと阿刀田は書いている。    

人一倍
 「人一倍頑張ったけれども駄目だった」と云うような言い方をします。これは素直に聞いて、人よりも頑張ったけれどもと云う意味に解釈して済ませている。けれど、一倍に拘るとおかしなことになる。一倍しても元の量と同じなわけだから、この場合他人より頑張ったことにならないのではないか、他人と同じだけの努力しかしていないのだから、結果がでないのはそのせいではないのかと。
 一倍について調べてみると、江戸時代ころまでは、倍と層倍の使い分けがされていて、×2、×3、×4などをそれどれ1倍または2層倍、2倍または3層倍、3倍または4層倍と表していた。この解釈で行くと、人一倍は人の2倍と云うことで2層倍の意味なります。明治期以降に層倍の用法がなくなってきて、単純に2倍が×2を表し、3倍が×3を表すようになってきたけれど、慣用句的な言葉として、「人一倍」が人の倍を表す言葉としてそのまま残っている。人二倍、人三倍は使われることがないから混乱はないし、人の3倍と書けば何の違和感もなく、人の3倍の意味が伝わる。ついでに層倍の表現も今は使われることがなくなっているけれども、慣用的な用例として、「薬九層倍」と云う言葉が残っている。
 一倍を大辞林でを調べてみると、ある数量を二つ合わせた数量。二倍。倍。と云う項目も載っていて、人一倍働くという用例が示されている。現在においては、実際には一倍を倍とする解釈はこの用例以外にはないのではないかと思う。
 江戸時代までの用例を見つけたので、ここに書いておきますが、確かに倍を二倍の意味に使用していたことがうかがえます。
 「−−おほよそ諸物価、文化・文政中に比すれば、嘉永・安政には一倍となり、(中略)よりてたちまちに文化・文政の三倍、嘉永の二倍となり−−−」(守貞漫稿巻の五・生業上・商賈の編) これは、諸物価が高騰して、文化・文政のころに比べたら、嘉永・安政の頃は二倍になった、さらに文化・文政の四倍、嘉永の三倍になったと云う記述である。    

〜は市民の顔
 「〜は市民の顔です」という標語を時々見かける。これは、その場所が公共の場所であることが多く、その場所を美しく保って欲しいという願いを込めたものとなっている。標語は比較的短い言葉の中に端的に主旨を盛り込むものだから、顔って言うのは一番目立つところであり、ここが美しいということで、その他も全部美しいんです、顔の表情が心の中もあらわしている、そういう意味をこめて、「〜は市民の顔です」という表現になる。例えば、国体を開催する都道府県が主要な駅に、「何々市は何々県の顔、訪問客を大切に迎えましょう」などと垂れ幕が掛けられたりします。駅前は美しく保つようにしましょう、お客様を笑顔でもてなさなければいけません。そういう意味が伝わります。
 このあいだ、ちょっと奇異なところでこの「〜の顔」と言う標語を見つけました。駅前の公衆トイレで、それも、用を足す便器に立つ前の壁に「トイレは市民の顔です。汚さないように使いましょう。」と貼り紙がしてありました。顔を汚さないようにと書かれてあってはちょっと用を足しにくいのではないでしょうか。せめて、トイレの入口か手洗い場の辺りに表示して置いていただきたいものです。    

〜になります
 「ラーメンになります」と店員が出してくれた器の中を見ると、もう既にラーメンなんです。それでも、店員の言うことを信じて、今はまだ中華ソバなので、そのうちラーメンになるものと思って、食べるのを待っていたために、麺ののびたラーメンになってしまった経験はありませんか。
 何なんでしょうね、最近よく耳にするこの「〜になります」と言う話し方は。テレビという公器を使って、アナウンサーまでもがこのなりますを使う場面に出くわします。この用法って間違っていないのでしょうか。そのうちに気にならなくなります。(この場合はこれでいいんだ。)
 時間の経過によって変化する状態、もしくは何かと何かが関係した結果状態が変わる、結果が出る場合を「〜になる」と表現するのだから、ラーメンになりますといった店員がお勘定を受け取るときに「1250円になります。」と言うのはこれはこれで間違ってないんだ。
 今度レストランで、カレーになりますなどと運ばれてきたとき、「今は何なんですか。」と聞いてみたいと思っています。

 今日、お昼を食べに”がんこ”に入った。お店が改装中で入口が分かりにくかったので、立っていた店員さんに「此処、”がんこ”ですよね」と念を押して聞いてみた。「はい、がんこになります」。もっと素直になって欲しいと思った。    

僕的には
 若い人の会話を聞いていて、私的には、僕的にはという言葉をよく耳にするようになりました。「僕的には」を最初に聞いたのはテレビで男性タレントが喋ったのを聞いたときです。「目的には」と聴こえたので(僕的という言葉を理解出来なかったから)話していることがよく分かりませんでした。そのうちに、彼は、僕としてはを僕的といっていることが分かってきました。ここまで書いた時点でYahooのサイトで「僕的」を検索してみました。驚きましたね、僕的日記・僕的世界・僕的居場所などそのものずばりのタイトルを持ったサイトが沢山あって、僕的のヒット数は3490万件もあります。
 的(てき)は何を意味しているのでしょう。彼らはどういう意味を込めて使っているのでしょうか。彼らの用法は僕的には、私的にはが、どうも僕としては、私としてはを意味しているように思えます。そこで大辞林を調べてみました。果たして的(てき)にそんな用法があるのかどうか。次のように出ています。
   1 名詞に付いて、形容動詞の語幹を作る
     @そのような性質をもったものの意を表す。「文学−表現」「詩−発想」
     Aそれについての、その方面にかかわる、などの意をあらわす。「教育−見地」「政治−発言」「科学−方法」
     Bそのようなようすの、それらしい、などの意を表す。「大陸−風土」「平和−解決」徹底−追求」
   2 人名や人を表す語(また、その一部)に付いて、親しみや軽蔑の気持ちを込めて、その人を呼ぶのに用いる。
     「取−(=下級の力士)」「泥−(=泥棒)」「幸−(=幸次郎)」
上のどれにも当てはまらないように思いますが。私的にはよく理解できません。    

1両編成
 テレビのニュースを見ていて、1両編成の普通列車がトレーラと衝突し脱線した、という列車事故を伝えているのを聞いた。「1両編成」と言う表現の仕方はおかしいのではないかと常々思っていた。Googleのニュースの検索のサイトから新聞各紙のニュ−スを拾い読みしてみると、各社とも1両編成の表現を用いていることが分かる。
 1両編成が既に広く定着している様子であり、新聞各社のマニュアルでは1両だけで運行される列車を1両編成と呼ぶように決めてあるものと思われます。しかし、本来の「編成」の意味するところは、個々のものを集めて一つのまとまったものにすること(大辞林)個々のものを集めて組織的なまとまりとすること(大辞泉)であり、個々のものを集めた結果を表わすから、少なくとも2両以上の列車の場合でなければ、編成と言う言葉を使ってはならないと思う。
 ここまで書いていて新たなことに気が付いたので、それも書いてみる。1両編成の列車ではなく1両の列車がと書けばよいのかと言うことにも疑問がある。列車とは何を意味するのかと言うことも考えて見なければいけないと思う。「列」には、順に長く並ぶこと、長く並んだものと言う意味があるから、「長く」を割り引いて考えても1両だけでは列車と呼んではいけないのであろうか。その通りのようです。旅客・貨物の輸送のために仕立てられた車両の一つらなり。(大辞林)であり、旅客や貨物を運ぶために路線上を走る連結した車両(大辞泉)が本来の列車の意味です。その意味から、今回の事故の報道は、1両の車両が踏切内で立ち往生しているトレーラに衝突したと伝えるのが正しい。
 1両編成の表現は正しくないが、2両編成以上の編成は当然のこととして正しい。これと似た形で日常に存在する「2重衝突」と言う表現についても考えてみることにします。衝突にかかわる車が3台である場合、AとBの車の衝突に追加的にCの車が衝突して、衝突が2重に起こるから2重衝突と呼ぶわけですから、通常の衝突は1重衝突かと言うことになります。
 でも、1重衝突とは誰も言わないし、見聞きすることがありません。これは極当たり前のことです。「重」には重なったもの、かさなったものを数えると言う意味があるから、単数である1には重を付けないので、1重衝突は正しい表現ではないのです。
 1両編成が世に出て1重衝突が当たり前のこととして表に出てこないことの結果について知りたいと思うのですが、どこかに答えがあるのでしょうか。 

 以上を書いた後に、鉄道運転規則なるものを見つけたので、全ての条文から列車、編成などについて調べてみた。この規則では次のように書かれている。
 第1章第2条(定義)
 一 列車 停車場外の線路を運転させる目的で組成された車両をいう。

 上記条文からすると、組成という言葉にもいくつかの要素、成分の組み合わせの意味があって、1両では列車と呼ばないと解釈できる。念のために、条文中に編成の定義がしていないか、編成の文言について調べてみたが見当たらない。ならば、1両の意味はと調べると、
 第4章55条(列車のブレーキ)
 一 列車が、動力車一両のみのもの若しくは機関車のみの列車であつて

という件があって、動力車1両のみの列車もあることが知れる。ただ、この規則をもってしても1両編成の列車という文言は見出せないし、あえていうなら1両組成の列車という言葉を作り出せるにとどまる。

のり弁当とトンカツ弁当
 コンビニの弁当コーナーやお弁当屋さんのメニューに、のり弁当というものがあります。これは、ご飯の上にのりが一面に乗せてあるスタイルのものが多い。さらにその上におかずが乗せてあるもの、おかずのコーナーが別になっているものがある。高菜弁当というのもある。こちらの場合はご飯の上に敷き詰めてある高菜の上には、高菜に匂い移りがするから、さすがにおかずは別に取ったコーナーに分けてある。
 のり弁当高菜弁当トンカツ弁当トンカツ弁当、しゃけ弁当、から揚げ弁当などメインのおかずを弁当の名前にしたものからすると、のり弁当、高菜弁当は決してのりと高菜だけでご飯を食べるわけでないから、この主張はどういうものなんだと思ってしまう。
 物の乏しかった時代、おかずにも事欠いて、ご飯の真ん中に梅干を一つ入れただけの日の丸弁当と呼ばれるものがあった。この場合の梅干しはまさしくメインのおかずであるから、日の丸(梅干し)弁当と呼んで、トンカツ弁当、しゃけ弁当と同じ主張である。
 のり弁当や高菜弁当を食べるとき、こんな名前でよかったかなと気分ののりが悪くなる事がある。
 
右の写真は、ほっかほか亭のサイトのものをお借りしました。(トンカツ弁当・高菜弁当・のり弁当)

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☆話せたらいいな☆
 今までに何度思ったことか、話せたらいいなって。海外出張のときにも、海外旅行をしたときも、また、街で外人さんから道を聞かれたりしたときも、もっと切実なのは仕事で外人と接するときに、話せたらいいなと何度思ったことでしょう。そのような機会が少なからずあった私には、外国語(主に英語)にまつわる思い出が沢山あります。思い出すものをここに書いてみたいと思います。
 自分にも経験があると共感される方と、この程度のことなら私には出来るのにと、私の、外国語音痴を笑われる方が各々おられると思います。    

ドイツ語で言われても
 ドイツに出張したときのこと、手許のドイツ通貨の持ち合わせが少なくなったので、ハイデルベルグ駅の両替所を利用しました。窓口にトラベラーズチェックを出したました。必要な換算レートでドイツ通貨が戻ってくることを想定していたので、いきなり早口の英語で話しかけられ、普通でも英語に弱い私にしたらもう何を話されているのか判りません。そのときは自分一人でしたので、余計に戸惑いました。英語が良くわからないという事を英語で答えると、今度はドイツ語で話しかけてくるではありませんか。
 「英語が分かれへんのにドイツ語が判るはずあれへんやろ」大阪弁が通じたらこう言いたい気持ちです。何とか単語を並べて、「もっとゆっくりお願いします。」 というと、「銀行の換算レートより高くなるがそれでも良いか」と言うような内容です。「そんなこと気い使うてくれたんかいな、おおきに」と言う気持ちをこめて「OK」と答えました。    

「ちょっと来い」と聞こえる
 家内と二人で飯盛山にハイキングに出かけたときの話。木の間から聞こえる鳥の声、遠くのほうから聞こえる鳥の声が爽やかな絶好のハイキング日和です。一緒に歩いていた家内が、「ちょっと来い、ちょっと来い」と鳴いているといいます。少し後ろを歩いていた男性が「コジュケイですよ」と追い越しざまに教えてくれました。そうなんです、コジュケイの鳴き声は「ちょっと来い」と聴きなしをするのです。私はバードウォッチングをするので、それを知っていました。家内はそのことを知らずに「ちょっと来い」と聞いているのに、私にはそう聞こえないわけです。
 音の識別、聞き分ける力など英語(外国語)のヒアリングには重要な要素です。私はこれが人並みではないので、外人が喋っていても単語すら聞き取れない状態です。だから、英語をいくら勉強しても他の人ほど上達しない苦い経験をしています。    

日常会話の単語
 英会話に使用する単語は、簡単な内容のことなら日本人が知っている程度の単語力で賄えるのではないかと思う。意味を知っていても、それを使用する状況の訓練が出来ていないから、適当にその単語が使えないだけだと思う。
 町の文化センターで開講されている英会話教室に通っているときにこんなことがありました。先生(外国からの留学生)が天井の蛍光灯を指差して、私に質問しました。「これは何と言うものですか」と、私は即座に「フルレッセントチューブ」とこたえますと先生に通じません。発音が悪いのか何度か言い直しますと、そんな難しい単語でなくて「ライト」でよいとのこと。

格好つけずに気楽に
 日本人は長い時間をかけて学校で英語教育を受け、会話より文法を、喋るよりも読み書きを教えられる。そんな語学の知識が先行して、喋ることが苦手な人種であると思う。特に、学校で受けた教育によって英語力をつけた人ほど、喋る段になると文法だの、単語だのを自分の引出から引っ張り出して喋ろうとする。
 そんな例を書いてみます。ドイツ出張でユーザーの方を含めて団体の研修旅行をしたときのことです。搭乗した飛行機が出発の空港を遅れて飛び立ち、到着が相当遅れたことがある。出発遅れの原因は、一旦駐機場から滑走路に向けて出発したが、積み残しの客があって再び駐機場に戻るトラブルがあったためです。
 到着の空港で私達一行を待ち構えていた運転手が、「何故到着が遅れたか?」と質問した。丁度、このフライトには通訳が別行動になっていたため、一行の中で、まずまず英語の出来るものが、「実は、飛行機が・・・・」と自分の単語力と文法力に頼りながら答えだしました。その時、英語の能力にはそれ程長けていないもう一人が「マシントラブル」と一言答えると、運転手は納得して、その場の状況に充分対応できました。
 こんなことも有りました、出張先のメーカーに毎朝でかけて講習を受けていました。2〜3日もすると、工場を通り抜ける途中で工員から私達に、「コンバンワ」と朝の挨拶が交わされるようになりました。その場の雰囲気でおはようの挨拶を交わしてくれていることがわかり、目的が充分に達成されています。私達はこの場合には「グーテンモルゲン」で良いんだなどと考えながらの挨拶になってしまいます。    

ヒアリングが出来ると
 これも出張したときの話です。空港の両替所で両替をしているとき、隣の窓口で日本人のおばさん(おばちゃん)がやはり両替をしていました。窓口の担当者が何かを話しかけたのでしょうか、おばちゃんは振り返りざま「お父ちゃん、細かい紙幣しかない言うてるで。」といいます。「それでええやん」。すると窓口に「それで」といったのか「OK」といったのかちゃんと両替が終了です。このおばちゃんには、相手の喋りがちゃんとヒアリングできたんですね。
 今度の話は妻と一緒にヨーロッパのツアーに参加したときの話です。パリのメトロで移動中のこと、車内で色々とパフォーマンスをして、その後に乗客の中を廻って寺銭を受けて廻る大道芸に遭遇しました。一通り芸をした後、自分のかぶっていたシルクハットをもってお金を受けに廻って来ました。
 私の前に来たので小銭を入れようとすると、傍にいたアジア系の人が何やら大きな声で喋りだしました。それを聞いていた妻が、「日本人は直ぐにお金をやる」と怒っていると言いますます。私は、アジア系の人が何を言っているのか判らなかったのに、妻には、「ジャパニーズ」の単語が聞き取れたようです。    

何とか交渉できた 1990/11/15(THU)
 イギリスのケンジントン駅近くのホテルに宿泊したときの話。ひとりで街に出かけて行き、書店で鳥の本を探して購入しました。3.5£でした。次に、洋品雑貨の店に入ってセーターでもと思って物色してみました。色合いもよいし価格もそこそこの表示になっているしサイズも良かったので、手にとって見ていると一部に傷のようなものを見つけました。店員(黒人だった)にいくらか安くならないかと交渉すると、私には権限がないので決められませんと言う。チーフにでも相談してくれるように頼んでみると、相談に行き、「これこれの価格でどうか」と返事があった。少しでも安く買えたので購入して店を出た。
 この間に私が発した言葉(単語と言ってよいような程度)は、たかが知れたものであるが、現物を前にしての会話であり、状況からしても相手には充分伝わったと思う。そのときのセーターは今はもうないが、鳥の本(BIRDS)は今も本箱にしまわれています。    

日本語も下手
 基本的に、語学に弱い人っているものです。私もそのうちのひとりです。耳がよくないので、聞き慣れない言葉の僅かな違いが判断できないのだと思う。音感が悪い人は、職場での各部署ごとの電話呼び出し音の差に直ぐに対応できない。この音はAの部署の電話の音、この音はBの部署の音、それが判るのに、他の人より時間がかかったりする。
 短時間外国にいただけで、結構話が出来るようになって戻ってくる人も有れば、長い間滞在していたのに、少しも上達しないで帰ってくる人もいる。
 私が出張でドイツのハイデルベルグにある印刷機のメーカーに行ったときの話です。出張先の企業で働いている日本人がいて、日本から出張して来た私達に色々と世話を焼いてくれるのはよいのだが、長く住んでいるのにドイツ語が大変たどたどしいんです。語学の上達しない人なんです。この人は、日本語も下手になっているのには驚いてしまいました。こんな人もいるんですね。    

日本語も外国語に聞こえる
 いよいよ帰国という日、パリのドゴール空港の免税店で買い物をしました。長かった出張も終えてやっと帰国ということで、もう外国語の呪縛から解き放たれる。そんな緊張感のないままに気軽に免税店で買い物をしていました。店員がなにをどう話しかけてくるのか、それに必死に対応する心構えも何もなく、無防備のままでした。
 これがいけなかったのでしょう、店員が何かを問いかけてきています、「えっ、何聞いてんねん」とちょっとしたパニックに陥っていますと、隣で買い物をしていた日本人が、「搭乗券見せてって言ってる」と教えてくれました。そう言えば「トジョケン」と言ってるんだとやっと分かりました。    

話し掛けないで
 この話は国内(東京)出張のときの話です。宿泊のホテルで部屋に行こうとしてエレベーターに乗った時、一人の外人が乗り込んできた。自分の階のボタンを押したあとだったので、彼の行く階のボタンを押してあげるつもりで聞いてみました。行く先階を告げたのでその階のボタンをおしました。ここまでは良かった。
 なんと、彼は私に話し掛けてくるではありませんか、余分なこと話し掛けないでよ、そういう思いで「私は英語が話せません」と伝えると、彼もすまなさそうでした。    

頭もよければ日本語も上手い
 この話は今までに書いた話よりづっと古い話です。私が大学の研究室で技術の補助員としてアルバイトをしていた時のことです。ゼミの学生の卒業研究の手伝いをしたり、研究室が受けている企業からの委託研究の実験を教授の指示に従って代行したりが仕事の内容でした。中には、留学している学生の日本語の書籍の読みの手伝いもしていました。
 インドからの留学生が本を読むので前に座り、読めない文字が出てくると教えるのです。このインドからの留学生の日本語力は素晴しく、話しをする事には何不自由ない状態です。漢字の読みを教えるだけです。意味をたずねることは一切ありません。読めたら文脈から漢字の意味が理解できるのです。一度教えると、しばらくぶりでその漢字が出てきても忘れていないんです。「難しい」を教えたときなんかは、「難しいはむつかしいですね」とおどけて見せる余裕です。余談になるけれども、このインドからの留学生は将棋も覚えていました。    

日本語を訛ってどうすんねん
 「○○サン(これは話しかけている外人の名前)コレ、ワカリマスカ↑」と日本語会話が十分に出来る人に、変に日本語を訛って話しかける人がいます。こんな人は、からっきし英語が話せない人で、英単語の一つも会話の中に取り込めない人だと思います。
 私が勤めていた職場には、ドイツから長期で派遣されてきている技術者がいました。彼らは、流暢ではないにしても、日常会話には困らないだけの日本語を習得してきていましたから、普通に話をしても通ずるのに、先に書いたような会話をする人がいました。「ショクジ、イッキマセンカ↑」「ナニ、チューモンシマッスカ↑」といった調子です。
 次の話は最近の体験談です。日本語を訛って話しかけるとはちょうど正反対の状況です。「ハウ マッチ、イズ イッツ」やっと考えて店員に告げました。「10ドルです」。よこで聞いていた家内が「この店員さん日本の人やで」。そうなんです、オーストラリアのケアンズの町にはワーキングホリデーで来て働く日本の若者が沢山います。日本人かと思っても中国系の日本語のわからない人もいましたから、このような状況が旅行の最中にも、もう2〜3度ありました。こちらはたどたどしい英語で聞くと、懐かしい日本語が返ってくる。ここは日本なのかい。    

読めないのと喋れないのどっちがいい
 定年退職してビジネスホテルで働いている。この職場でも、ほんの少ない機会ではあるが英語と接する事がある。今日書こうとする話は、英語が話せなくて困るという話ではない。日本人なら、単語を読んでその意味を理解できる事が多いのに、外人の場合日本語の語彙を読むことができない場合が多い、この対比について、ホテルで起こった話を書いてみます。
 部屋から電話がかかってきて行ってみると、エアコンが温まらないということです。お客様は、インド人のご夫妻で、見れば奥さまは肩からショールを被って寒そうにしています。リモコンで電源を入れてみると、確かに暖かい風が出てきません。いったい何度に設定してあるのとみると、27℃になっています。しかも冷房の設定です。これでは寒いはず。
 冷房・暖房などのボタンの文字が読めないんです。日本人の私たちは、簡単な英語表示なら大体は用をたす程度に理解できるのに、日本語が立派に話せるこのインドの方は、日本語表記が全く読めないんです。
 外国語が喋れる方がいいのか、街中で見かける外国語の表示が凡そ理解できるのがよいのか、どっちがいいのでしょうか。
 次の日、「昨日はすみませんでしたね」とお詫びしましたら、「お疲れさん」と返事が返ってきました。?

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