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重伝建選定 1998/04/17

女城主の城下町 岩村

岐阜県恵那市岩村町  明智鉄道岩村駅  2007年3月25日(日)訪問 地図

岩村城下町並み 昨日夕刻からの雨がやっとあがって、今日は午後に向かっては雨の残る心配もなくなった。明智鉄道(旧国鉄の時代の明知線)の岩村駅を降りる。駅を出て南の方に進むと4〜5分で東行き一方通行の道に出ます。この道が岩村城城下町の町人町で岩村本通りと呼ばれるところです。城下町を東西に流れる岩村川の南側に当たるところです。旧の武家屋敷町は川を挟んだ反対側にあったのですが、町並として残っているのは、この町人の商家を連ねる町です。市指定の文化財として土佐屋、木村邸資料館、浅見家、勝川家などがある。この町には400年以上も前の町づくりのときに、通りの両側に疎水を通してあります。この疎水が今も各家屋の中庭に当たる辺りに流れています。これは生活用水や防火用水として利用されてきたものです。 

 城下町のシンボルである岩村城は、日本3大山城でその中でも最高標高に築城されたお城です。天守閣は終始築城されることのなかったそうですが、残される石垣の幾重にも築かれた様子は一見の価値がある、と言うことを話をさせて頂いた方から2度3度聞きました。予定以上に街中の散策に時間をかけてしまって、上まで行くことが出来ませんでした。

城主の館として城のふもとにある太鼓櫓 岩村城は一時期女性が城主がなったことがある。織田信長の叔母で遠山景任に稼していた。夫病死の後のことである。この事実を岩村城が女城主の町としての歴史的ふれこみで今に伝えられていて、町では、女城主の文字が目を引く。岩村酒造と言う造り酒屋の銘柄にもなっている。岩村の町の女城主への入れ込みは、歴史上波乱に人生を送ったの悲しい物語に裏打ちされたものである。ここでは説明を省略しました。

武者窓が特徴 商家の中で木村邸は別格な地位にあったということです。先祖は藩士出身で名字帯刀を許され士分待遇を受けていました。家のつくりにもそれがうかがえる。藩主が来邸するときのための薬医門(今はない)が設けられ、専用の玄関(写真の右端)が設けられている。建物内部も藩主滞在の書院、次の間、茶室が母屋と隔絶したつくりになっている。お付の侍が警戒に当たった部屋には武者窓が出格子窓に突き出した形で設けられている。一部三階になる茶室が隠し部屋として設けられている。この部屋は密談を必要とするようなときに利用されたということでした。中庭には天正疎水が今も流れている。
 木村邸は有料公開です。一人で入館してもゆっくりと説明をしてくださいました。

土佐屋中庭にある天正疎水土佐屋 木村邸と道を挟んだ反対側に土佐屋があります。ここも有料公開の家屋です。入館時にはゆっくりと内部の説明していただきました。紺屋(染物業)を生業としていたこの家には、染工場の蔵があり、藍甕(染壷)それを周りからあためる火壷が11基当時の息遣いが感じられるように残されています。敷地内の一番奥には埋門(うずみもん)があってすぐ裏を流れる岩村川に降りられるようにしてある。染物業を行うには川の水は欠かせない重要なものだということです。埋門になっていることは土地の段差がそうなっているだけの理由です。
 母屋の二階にも上がることができます。厨子二階表の間は思っているほどに天井が低いものではありません。二階に上がる箱階段と併せて写真をとってきました。
 中庭には天正疎水が流れていることは木村邸の場合と同じです。

 岩村は地方の小藩であるけれども教育が盛んに行われていて、儒学者の佐藤一斎を輩出した藩校知新館の遺構も残っています。近世には、日本の女子教育の先駆者下田歌子、世界的な植物学者三好学博士などもこの地から出ています。町中の主な家屋に佐藤一斎の著述から抜き出した300ほどの言葉を木の札に書いて掲げてある。全部読むのは大変ですけれども、なかなかに含蓄のある文章ではあります。「少にして学べば、則ち壮にして為すことあり、壮にして学べば、則ち老いて衰えず、老いて学べば、則ち死して朽ちず」は小泉純一郎が引用した言葉だそうです。


浅見家

勝川家

勝川家蔵

木村邸武者窓

高札場

土佐家表の間

土佐家箱階段
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