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 私が子供の頃(昭和の20年〜35年頃)の暮らしの中に存在していた、生活習慣の中から懐かしく思い出されるものを、ここに書いてみました。これは、昭和の一時期の街の風物詩です。
 
大掃除 物売り(行商) 縁台将棋 とんと(焚き火)
帰省ラッシュ 定期的な停電 行水 夜店
青年団 宣伝飛行機 紙芝居 台風対策
餅つき      
 
◇大掃除
 暑い夏の日に、町内をあげての大掃除という行事がありました。夏の風物詩として存在していましたが、いつの頃にこの習慣(行事)がなくなってしまったのでしょうか。
 大掃除は、地区ごとに役所(市や区)の衛生部局が決めた日に町内で一斉に行いました。この日は朝早くに起きだして、家財道具(家具をはじめとする家庭用品)から畳にいたるまでを家の外に出して、日に当てて乾燥させます。家の中では、家財道具を取り去った後で、天井、壁などのすす払いをし、畳をあげた床に、昨年の大掃除のときに敷きつめた古い新聞紙を取り払い、ゴミを取り去り、殺虫剤(DDT)をまきます。
 お昼ごろになって、十分に日に当てた家財道具を、掃除のすんだ家の中に運び込みます。畳は叩き棒でパンパンと叩き一年中のホコリを払います。不要になったゴミは決められた場所に出しておくと、役所から車が回収にきます。
 大掃除に決められる日は、必ずしも日曜ではなかったので、一家の主が会社を休めない家では、出勤前に家財道具、畳など力仕事は済ませて出かけました。子供(現在のような一人っ子家庭は少なかった)も学校へ行くまでに手伝ったものです。また、学校から帰ってきても後片付けを手伝いました。
 当時付けていた日記の記録から判ることを書いてみます。1957年は7月30日(火)に大掃除が行われました(当時住んでいた大阪市のある地域のことです。以下同じ)。その後1961年8月1日(火)、1962年8月31日(金)、1963年8月11日(日)、1965年8月1日(日)に大掃除をしたという記録があります。この後、日記も記録が飛び飛びになっていて、大掃除をしなくなったのは昭和の何年からなのかわからない。少なくとも1965年(昭和40年)には、役所からの支持による一斉の大掃除なるものが行われていたことは確かです。
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◇物売り(行商)のいろいろ

  売り声をあげながら物売りや物品の修理が街にやってきました。整髪料の量り売り、下駄の歯の据え替えと鼻緒の交換、キセルの竹管(羅宇)のヤニの掃除・交換、イワシの量り売り、鋳掛屋(いかけや)、廃品回収、竿竹屋、傘の修理、金魚売り、虫売り(主にキリギリス)、麦茶・はったい粉売り、ポンの膨らし屋、紙芝居、それぞれの売り声や状況を覚えている範囲で書いてみます。

 
整髪料の計り売り

 「クリームにポマード、髪油の詰め替え↑」と唱えながら、自転車(タイヤが少し太めの運搬車)の荷台に商品を入れた箱を積んでやってきました。注文を受けると、客が持ってきた容器に、ポマードなどはヘラを使ってビンに詰め込んでゆきます。液状の油は、メッシリンダー様の容器から、ビンに注ぎ込んでいきます。その売り声や所作を子供の頃は興味を持って見ていました。

 
下駄の歯の据え換え、鼻緒の交換

 売り声を覚えていません、特徴のある売り声ではなかったのかもしれません。下駄(歯が交換できる高下駄、日和下駄、書生下駄など)の歯の交換の作業は、そばに屈み込んで一生懸命に見ていたことお覚えています。古くなった歯をヤットコを使って取り去ります。予備の歯の中から寸法の合うものを選んで、鉋で溝の幅に合うように削ってゆきます。薄く削れた鉋くずがスルスルと排出されてくるのを、うまく削るんだなと感心しながら見たものです。溝の寸法と合わせながら少しずつ削ってゆきますが、削りすぎてあまくなった場合には、鉋くずを歯と溝の間に挟んで調整したりしていました。

キセルの竹管(羅宇)の掃除、交換
 「らお仕替えー、らお仕替えー」とやってきました。子供の頃は「らお」と聞こえていたのですが、「らう仕替えー」と唱えていたのかは、今となってはハッキリしませんが、らおが羅宇のことであると分かったのはずっと後のことです。羅宇の中に詰まったヤニをとるために、熱した鉄の棒を中に通して、ヤニを焼きとります。使っていた鉄の棒は、自転車のスポークが使われていたように思います。 TOP 


イワシの量り売り

  「イワッシャイ、イワシィ、手々噛むイワシ」といかにも獲れたての新鮮なイワシを強調した売り声でした。獲ってから2〜3時間もしないうちに売りに来ていたのですから、キラキラした新鮮なイワシが容器の中に入っていたことを覚えています。予断ですが私が子供の頃は大和川でうなぎの稚魚を掬って獲ったことを覚えています。

 
鋳掛屋
 昔は、なべ釜の底に穴のあくまで使用しました。またそれを修理して使用したので、鋳掛屋という商売が成り立っていたのです。注文を受けると道端に道具を下ろして修理を始めます。今で言うハンダ付けのような作業だったのか、穴に鋲をかしめて補修したのかよく覚えていません。 

 
廃品回収
 なぜか、それがどういう意味であったのか分からないのですが「ビーン、ビーン」という呼び声でした。この声を聞けば、廃品の回収屋やさんがやって来たことがわかりました。呼び声は回収品の一つの品目であるビン(壜)のことであったのでしょうか。TOP


竹竿屋
 「さおだけー、さおだけー」という単純な売り声でした。今のように軽トラの荷台に商品を積んで売りに来たわけではありません。肩に担いでいたのでしょうか、荷車を引いていたのでしょうか、記憶がしっかりしません。

傘の修理
 「かさ、コーモリ傘の張替え↑」と掛け声をかけてやってきました。コウモリ傘とわざわざ呼んでいるのですから、かさは番傘と呼ばれる紙と竹でできた和傘の張替えを請け負ったのでしょうか、これも記憶が定かでありません。私の子供のころは、学校えさしてゆく傘は和傘でした。

金魚売り・虫売り
 夏の風物詩として、街々にやってくる金魚売りと虫売りが懐かしく思い出されます。「金魚えー、金魚」という売り声と、虫かごの中から聞こえるキリギリスの声は、暑い日中の一服の清涼剤でした。TOP


麦茶・はったい粉売り
 「麦茶はいたいお」と少し寸詰まりな売り声でした。麦茶もはったい粉(麦を炒って粉にしたもの)も自家製のものを売りにきたのでしょうか。はったい粉は砂糖を混ぜて、お茶で練って子供のおやつになりました。粉のままで口にほおばって食べると、口の中がごわごわして食べにくかったことを覚えています。 


ポンの膨らし屋
  ポン菓子の加工の行商が、圧力釜を載せたリヤカーを牽いてやってきました。家庭から米を持ってゆくと、加工賃を取って米を膨らしてくれます。圧力釜の中へ米を入れて、熱を加えながら回転することしばし、時間を見計らって釜のふたを開けます。このときに一挙に膨れた米(ポン菓子)が真っ白い蒸気を伴って、大きな破裂音とともにかごの中にとび出してきます。その音、飛び出してくる瞬間の来るのを今か今かと楽しみにして、見守っていたことを思い出します。 

 
紙芝居
 今はもう街角で紙芝居を見かけなくなりました。その頃は、毎日決まった時間に決まった場所に、紙芝居がやってきたものです。紙芝居で生計を立てる人が沢山いた時代ですから、少し離れた別の場所に行けば、別の紙芝居やさんが回ってきていました。自転車の荷台に紙芝居の道具、子供に販売するための駄菓子を積んでいます。最初に、子供を集めるために拍子木を鳴らしながら町内を回ります。紙芝居屋のおじさんがそれをするまでもなく、子供がその役を喜んでしたものです。
 紙芝居の始まる前に、水あめ、するめの足を加工したもの、せんべい、など駄菓子を販売します。紙芝居は、出し物が3巻くらいあったと思います。毎回連続する物語になっていて紙芝居がやってくるのが楽しみでした。紙芝居の前にちょっとしたなぞなぞがあったり、判事絵のようなクイズまがいのものがあって、それに答えるとお菓子などがもらえたりしたものです。ただし、只見する子供には答える権利がありませんでした。 TOP

 
◇縁台将棋

 子供の頃に、家の前に縁台を持ち出して将棋をよくしました。私は、小学校に上がる前からなぜか将棋を習得していました。尤もこの時代は今のようにゲーム機なるものはなかった頃ですから、小学校に上がると自然と将棋を覚えたものです。
 家の外での将棋ですから、自然と友達が寄ってきて、横から口を出したりしたものです。大人も一緒になって、ああでもないこうでもないと盛り上がりました。上手な低学年の子供が上級生を負かしたり、時には大人にも勝ったりして、みんな必死になって遊びました。
 夏の夜などは、夕涼みをかねての縁台将棋は、毎日のように行われていました。 TOP

 
◇とんと(焚き火)

 冬の寒い朝、町のあちこちでとんと(焚き火)が行われていました。「とんと、あたって行こか」、と登校までのちょっとした時間に焚き火にあたって暖を取りました。焚き火の材料には炭俵や米俵(今の時代にはもう存在しません)、木材の切れ端が使われました。この頃は衣服も粗末なものでしたし、栄養状態もよくなかったから、冬の寒さは身に沁みるものがありました。その証拠に手がシモヤケやアカギレになっている子供が多かったものです。

  1月の恒例行事として各地で行われる、正月のしめ縄や破魔矢などを焼く「とんど焼き」のとんどとは焚き火ということで同じ語源から来た名前なのでしょうか。 TOP

 
◇帰省ラッシュ

 今の時代にも、年末年始や夏休みには、高速道路の渋滞情報、空港、JR駅の混雑振りが報道されますが、長距離の移動が専ら国鉄に頼っていた時代ですから、その混雑振りは、生易しいものではありませんでした。国鉄大阪駅前には、テントが幾張りも張られて列車待ちの長い行列ができました。もちろん駅構内の広場にも行列ができました。
 一つの列車の乗車率も200%以上にもなるすさまじい状況でした、長距離の夜行列車での移動でしたから、通路に新聞紙を引いて座り込む者、座席の下にもぐって眠る者、小さな子供を網棚に乗せて寝かせるのも見かけました。私は、洗面所に4人が立ったまま佐世保から大阪まで乗車した経験があります。それほどに列車が込んでいました。TOP

 
◇定期的な停電

 電力不足のために、停電をすることがしばしばありました。落雷などによって引き起こされる現在の停電とは違いましたので、停電に備えて各家庭にはランプやロウソク、カンテラなる非常照明道具が用意されていました。もちろん、冷蔵庫、テレビなどの普及していない(普及にいたるまえの段階)時代でしたので、停電して困るのは、家中が暗くなってしまうことくらいでした。
 この頃の一般家庭では電気料金は定額制でした。各部屋の室内灯とラジオくらいしか電気を消費する器具はありませんでした。  TOP 
 
◇行水
 昔は内風呂を持った家が少なかった。お風呂に入るためには銭湯(お風呂屋さん)に行くのが当たり前の時代でした。風呂屋での遊びについても、このHPの中で語りたいと思うくらい、子供の頃の記憶がありありと蘇ってきます。機会を見て書いてみます。
 ここでは、風呂屋のことを書くのではなく、今はもう行われなくなっている、昭和の初期の頃までの行水について書きます。今もそうですけれども、風呂の料金が生活費の中に占める割合が馬鹿にならないものです。そこで、夏場には、家庭の中で風呂に変わる行水で代用することがありました。洗濯用のたらい(人が中に入って座れるくらいの大きさの木の桶)がどこの家庭にもありましたから、これに沸かしたお湯を入れて風呂桶の代用です。お湯は、絶滅危惧商品のところにも書いたかまどで鉄の釜で沸かしました。
 行水は、湯がふんだんに使えないこと、入るときには熱すぎるくらいでも入っているうちに冷めてくること、湯船(たらい)が狭いことなど、色々とあってあまり好きではありませんでした。もちろん、狭い家に住んでいましたから、脱衣場に代わる場所があるわけでもなく、とにかく行水の日はいやな思い出しかありません。
     「行水の 捨てどころなし 虫の声」(鬼貫)そんな風流とは一切無縁です。 TOP
 
◇夜店

 縁日と呼ばれるものはありますが、私の経験の中のそれは、決められた日に定期的に、それも夜になって店が並ぶ夜店の思い出です。縁日の縁はえにしであり何らかのつながりを表しています。お寺の境内で毎月21日に行われる、お大師様の日にというようなものです。何かの行事と関係があって縁日が開かれます。
 ここでは夜店について書いてみます。毎月2,4,9の着く日、通学していた中学校の横の通りから、その前後に掛けてに約200mくらいの距離にいろいろな店が出ました。夜店を冷やかしに行くのが楽しくて、友達と誘い合わせてよく出かけました。夜に店が出ることから考えて、これは夏場限定のことであったと思われますが、記憶は確かでありません。
 照明は仮設された電線からぶら下がる裸電球が主なものでした、中には、カーバイドから発生するアセチレンガスを燃やして照明にしている店もあったように思います。

 縁日でない夜限定で出る夜店と呼ばれるものは、今はもう懐かしい昭和初期の風物詩なのでしょうか。並んでいた店はおおむね次のような店でした。

輪投げ
 輪投げは今も見かける店の一つではあるが、これに取って代わって、千本引きという、商品の先につけた紐を引いて、その先についた賞品が当たるというもの、また籤を引かせて商品を取らせるものなどが多くなってきている。豪華な賞品が並んでいるので思わず買ってしまって、結局は外れの商品を何個も手にしてしまう。射幸心をくすぐる類の店です。

ヤドカリを売る店
 ヤドカリのほかホタル、銭亀、ヒヨコなど小動物を売る店が結構あった。ヒヨコは大きく育っても全部雄鶏にしかならない、雌雄選別した結果のヒヨコを売っていたわけです。買って帰ると次の日からしばらくは世話をする。道端に生えているハコベ草をとってきて、米屋さんでもらってきた米糠とを混ぜてえさを作って与えたものでした。箱の中に布切れなど入れてヒヨコが寒くないようにという対策などしたことを覚えている。しかし、成鳥になった記憶は一度もない。また、他の人が成功したこともほとんど聞かない。たいていは暫らくして儚くなってしまう。
  蚕を育てたこともある。これは、夜店で売っていたのではなく、学校のそばの文房具屋さんの店先で売られていた。知育教育のひとつという意味があったから、文房具屋さんの商品の範疇に入っていたのでしょうか。こちらはたいてい繭を形成するところまでは育てられた。
 ホタルは籠とホタルを止まらせておく草とセットで売っていました。家に置くとなかなか風流なものです。いまは、ホタルの生息数が減ってきてホタル売りそのものが、昔懐かしいものになっている。

金細工の店
 針金を器用に曲げてねじって複雑な形で、鉄砲(ピストルというより機関銃のような)に作ってあったり、輪ゴムを動力として動く三輪車であったり、それを目の前でやっとこなどの先っぽをまく使いながら、針金を加工していました。今は、全くお目にかからなくなったもので、懐かしく思い出す。

徳ナイフの実演販売
 見ているといかにもよく切れるナイフであり、使い勝手の良いいろいろな要素の道具がついていて、中でもガラス切りは板ガラスを自由自在に直線状に、波型に切って見せます。これはいいなーと思いながら見ていたものでした。子供の小遣いで買えるような価格でなかったのか、自分で買ったことはなかったけれども、ガラス切りが実演販売のようにはいかないようでした。

ミの実を売る店
 街中に住む私たち子供には、グミの実を売る店、ホオズキを売る店、ホオズキでも海ほおずきを売る店などは珍しいお店ではありました。

いかがわしい詰め将棋の店
 一見して簡単に積みそうな局面の詰め将棋が盤の上に並べてあって、客に一回いくらかで挑戦させる。失敗するごとに課金される。見ている客の中にサクラがいて、自分でわざと下手な手をいさして、客の挑戦の気持ちを煽る。将棋の上手な人が見れば、なかなか難しい問題になっているのか、詰まない問題であるものと思われるが、引っかかってしまう客がいる。子供ながらどうしたら詰むのかを考えながら見たものでした。

古本を売る店
 古本屋さんでは、今考えると古本というより古書と呼ぶにふさわしいようなものが売られていました。何でも売ってお金に替えるという貧しい時代だった。大日本帝国地図帳という台湾も満州も日本の領土と表示された地図帳で、奥付の定価が1円2円などとなっているものが、探し回らなくても、すぐに手に入るように並んでいました。今残っておれば古書の分類に入るようなものです。この時代に購入して今も本箱に残っている本が1冊ある。

のほかの店
 ホオズキ(ナス科の多年草)の実を売っているお店、海ほおずき(海ほおずきとは、アカニシ、テングニシなどの巻貝の卵嚢)を売る店もありました。ホオズキは口の中に入れてギュツギュツと鳴らして遊ぶものです。バナナの口上売りもありました、いまでもあるカキ氷、ヨーヨーつり、金魚すくいも定番です。  TOP

 
◇青年団

 日赤奉仕団という組織は今もあります。各自治体のもとに各地の自治会があり、それが日赤奉仕団の組織かと思います。昔は、地区の自治会の中で青年団といわれる組織があり、これは、都市部を離れた農漁村にのみ特有なものではなかった。わたしが住んでいた地区(大阪市内)でも、青年団はあり野球部を作り、夏祭りを応援し、盆踊りを主催していたようです。それが何時の頃からか、青年部というチョット近代的な名称で呼ばれるようになり、今では都市部でそのような活動をしているところが少なくなってきている。
  私が活動していた時代(昭和30年〜40年頃)の青年部の行事にどういうものがあったのか、どのような様子であったのかを、日記帳の中から探してみました。

 
◇宣伝飛行機
 今ではもうお目にかかることはないが、昔は、軽飛行機を飛ばして空の上からスピーカー一杯の音量で、がなりたてる様な宣伝が行われたものでした。時折、その飛行機から割引券だの商品の引換券だのが撒かれたりしたものである。子供の頃は、このビラを追っかけて拾いに行ったことを思い出す。昭和40年の9月の日記に「日曜日の朝早くから宣伝飛行機が来てうるさく飛び回る」と書いてあるのを見つけました。 

 
◇台風対策
 1950年9月4日に突然襲ってきた台風の被害で、自然災害の恐ろしさをはじめて知りました。これは、わたしの記憶に残る台風の最初で最大のものです。ジェーン台風と後で命名されました。昼前から雨風が強くなりだして、淡路島を通過して西宮市に再上陸したときには、大阪市においては最高の風速となっていました。突然襲ってきたというのにはわけがあります。この頃(昭和25年)には台風情報が今ほどに進んでいなかったこと、そして、一般家庭にはまだ充分にラジオ(テレビではありませんラジオです)が普及していなかったこともあって、台風が何時ごろどのような進路をとって日本に接近してくるかを、知るすべがありませんでした。
 昔の家屋は現在の家屋ほど機密性が高くなかったから、少しの風でも家の中を風が通り抜けてゆきます。何の備えもしていないときに急に風が強くなりだして、窓ガラスを振るわせる、縁の下を通過していく風が、床板を押し上げて持ち上げる。強く振る雨が治水工事の進んでいない川を増水させ、下水があふれ床下まで進水してくる。玄関の下駄が入ってきた雨水でプカプカと浮き始める。この日は父親が仕事に出かけていて、家にいたのは母と姉と妹と私の4人でしたから、「近くの川が増水しているので、地域の小学校に避難してください」そういって町内会からの連絡が入った時は何か救われたような気持ちになりました。外に出たものの、学校までの道のりの遠くて恐ろしいこと。電線が上下に大きく波打って、ヒューヒューと唸りをあげている。屋根の飛ばされた住宅を道すがら目にしました。学校の鉄筋校舎に非難を済ませたときほっとしたことを覚えています。
 この経験をした後、ラジオの放送が少し取り入れられるように普及し始めたこともあって、台風に対する対策が各家庭で取られるようになりました。台風が来ることが予測されると窓ガラスに板を打ち付けて塞いだり、飛ばされて危険なものはあらかじめ固定したり、家の中の収納したりしました。ラジオの台風情報に耳をかたむけて、進路の確認をしたりするようにしました。

 
◇餅つき
 ここで言う餅つきとは、年末に多くの家庭で行われた餅つきの事で、お正月用の鏡餅、お雑煮用、焼餅用、保存用としてのかき餅を作ることが目的で行われた。お正月にはお餅を食べることが一般的に行われていたから、各家庭では自家製のお餅を用意した。自分の家でお餅をつかないまでも隣近所が寄りあって共同でお餅をつく家庭もあり、町内のあちこちで年末になるとお餅つきをする光景に出くわしたものです。
 時代が変わって、だんだんとお餅をつくことが減ってきて、今では、町内の子供会や団地のイベントとして時々目にする。また、集客を目的として、お餅つきを体験させる大型店舗があったりする程度になっている。お餅つきの様子を写真に撮ったのでご覧ください。

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