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交易の要港として栄えた港町 忠海

広島県竹原市忠海町  JR呉線忠海駅  2009年8月4日(火)訪問 地図

 瀬戸内海航路は、中世までは殆どが陸地に沿って航行する地乗りであったが、近世になると、航海技術(帆布、地図、計器など)の進歩によって、瀬戸内海の中央部の最短距離を行く沖乗り航路が利用され始めた。この頃から忠海の港町の役割が少なくなって、明治以降の鉄道の開通によってさらに港町の役目を終えて行く。

枡型から東側を撮る 忠海の町並みは海岸線に沿って東西に幾筋も発達している。駅前の通りを約150mくらい進んだ先に3軒が1戸の建物になっている長屋造りの家屋がありました。この道を左に入ると、すぐ右に「平賀晋民先生旧宅跡」と標柱を立てた町屋があります。その前には、鼠漆喰塗込めの虫籠窓を持った厨子二階の民家(写真がありました。平賀晋民はどのような方なのだろうか、居合わせたご近所の方にお聞きしましたがよく分らないようでした。
 平賀晋民は頼山陽の父春水の師で忠海の木原家に生また儒者です。

 この通りを駅前の道に戻って少し先を今度は右の入って行くと、この通りにも古い町の名残を残す建物があります。下の写真の#4、#5がその様子です。

 さらに駅前の道を少し進んで、道幅が細くなったところで右に入って行くと枡型を形成して道筋が食い違っている通りがあります。枡型の辺りに街並みを感じさせる連続性のある建物が残っていました。その先に誓念寺と云うお寺があります。この辺りにも街並みの形成が感じ取れる何棟かの家屋が並んでいましたが、保存状況が悪く、人が住んでいないのか朽ちかけた物もあります。


虫籠窓を持つ

平賀晋民旧宅

路地の佇まい
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