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枚 方 東海道の宿場町、淀川船運の中継港として栄えた。東海道57次56番目の宿
町並み分類:寺内町宿場町河港町
文化財:鍵屋資料館(枚方市指定有形文化財)
入場拝観施設:鍵屋資料館(大人200円)
大阪府枚方市岡新町・岡町・三矢町・泥町                      2010年7月4日(日)訪問   地図
京阪電車枚方駅下車、東の見附まで徒歩約5分
 寺内町の中核寺院 願生坊枚方は元々願生坊の寺内町として、中世期末に形成された。この、願生坊は順興寺として建立したのが、創始だと伝えられている。慶長16年(1611年)に枚方御坊として再興されて、後に願生坊と名を改めた。

 豊臣秀吉の命により、淀川左岸の堤防として築かれた文禄堤が、大坂京橋から京都伏見へ向かう京街道として用いられるようになった。慶長6年(1601年)、徳川家康がこの京街道を東海道の延長として、伏見、淀、枚方、守口を宿場として定め、東海道57宿とも呼ばれる。枚方宿は56次目の宿場です。
 東の見附から西の見附までの、東西13町1間(1447m)の道すじに、道標、往時の建物などが保存され、復元されて残っています。

小野平右衛門家
小野平右衛門家 宿場の東は、天の川の堤防下の、東の見附跡で、ここから西に街道が続きます。見附のすぐそばに、小野家の建物があります。説明板には、「江戸期より村年寄と問屋役人を兼ね、村と宿駅の運営に影響力を行使した。当家には、正徳6年(1716)建築の古図と鬼瓦を存するが、現在の建物は幕末期と推定される。」とあります。街道に面して広い間口を持つ町家で、表門口には揚見世と下げ戸が、また潜り戸の付いた大戸、結界格子も見られます。上屋は厨子二階漆喰塗込めになっています。
 醤油業も営んでいたということで、屋号を八幡屋というそうです。

 古い町並みはしばらく途絶え、枚方橋の遺構がある場所にでます。ここには、旧の安居川枚方橋跡の親柱の遺構が残されていました。更に進んで、宗左の辻に、文政9年(1826年)に建てられた道標が残っている。
 この辺りから、本陣跡、問屋場跡などの石柱が所々にあって、街道筋が、かっては栄えていたことを伝えている。宿場の中心であった三矢村(現在は三矢町)付近です。本陣は明治3年に取り壊され、その跡地は公園(三矢公園)になっています。三矢公園の東側にくらわんかギャラリーがあります。ここは、江戸中期から塩の商いをしていた塩熊商店の建物で、今は、民芸品を扱い文化教室などが開かれています。小野家旧本宅の母屋であった建物です。
 本陣の西側に浄念寺があります。前を通る街路は桝形を形成しています。これは、本陣防御のためのものであったようです。
 浄念寺から西の見附までの間には、木南喜右衛門家、鍵屋資料館などの建物が保存されていて、鍵屋の辺りでは、古い佇まいの家並の連続も見られます。

木南喜右衛門家木南喜右衛門家
 この家も昔の町屋の遺構を残しています。屋根は、切り妻屋根になっていて、その前に片流れの平屋根を掛けていますので、厨子2階平入り家屋になっています。写真には、切り妻屋根がうまく写っていません。
 江戸時代初期から、庄屋と問屋役人を兼ねていた旧家で、後には金融業にも手を染めていた。建物は明治期に建て替えられたもので、街道に面して長い間口を持ち、出格子と虫籠窓が連なる伝統的建築です。表屋造りになっている。

鍵屋資料館
 枚方市立の資料館になっています。鍵屋は、船待ちの旅籠を生業としていた。別棟と主屋の2棟が残されているい。別棟は昭和3年築の木造二階建てであるが、主屋は文化8年(1881年)に建築されたもので、平成13年に解体復元再建された。江戸時代の船待ち宿の構造をよく伝え、平成9年に枚方市指定の有形文化財に指定されています。
 内部の公開と資料展示をしています。今日の訪問では、閉館後であったために内部を見ることができませんでした。機会はいつでも作れるので、あらためて訪問することにしたいと思っています。

枚方橋の親柱の遺構 宗左の辻の道標 くらわんかギャラリー
鍵屋の少し東側の家並 浄念寺そばの桝形 鍵屋の東側から家並が続く
鍵屋資料館 卯建に描かれた鍵屋の標 このような石柱が沢山見られる
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