摂津の酒どころとして発達した 町並み分類:寺内町・在郷町 |
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大阪府高槻市富田町3、4、5、6丁目 2010年7月12日(月)訪問 地図 | ||
阪急電車富田駅下車、徒歩約5分 | ||
富田は寺内町として成立したところで、その中心をなしたのが、富田御坊として隆盛を極めていた教行寺です。この、教行寺は文明8年(1476年)蓮如によって富田道場として創建され、後に一向宗弾圧によって、天文元年(1532年)に残らず焼き払われます。天文5年(1536年)に再興され、教行寺と呼ばれている。
その後、富田は寺内町から、宿場町、市場町の機能をも持つ町として発展してゆきました。さらに江戸期に入って、後背地の良質な米作と、阿武山系の地下水を利用し、摂津一の酒造りの町として発展しました。最盛期には24もの蔵元を数えるまでになりました。 江戸時代の俳人で、芭蕉十哲の一人の宝井其角が、「今朝沢山飲めや菖蒲の富田酒」と、ここ富田の酒を詠んだ句があります。かな書きすると、「けさたんと のめやあやめの とんたさけ」となり、これは逆さまから読んでも同じ意味になる回文になっているのが面白い。(左の写真の説明板に出ていました。) 町並みは、この2軒の造り酒屋の残っている、富田3丁目・6丁目といったところに点在していて、歴史的景観をそれほど多くとどめていません。寺内町の中心であった教行寺とは別に、本照寺というお寺があって、こちらにも富田御坊の説明があります。寺内町の形成は、むしろ本照寺を中心に残されているような感じがあります。 富田は、古い町並みもありましたが、由緒ある神社仏閣も多く残っていて、歴史の感じられる町です。普門寺から南に下がってきた道路わきに建っていた道標(写真右)には、「天保四年歳癸巳二月上旬」と刻まれています。天保4年(1833年)の石柱が何気なく建っていました。 |
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壽酒造の正面 杉玉が吊ってある | 富田3丁目 | 清鶴酒造の酒蔵 |
清鶴酒造(右)と酒蔵 | 三輪神社の東側 | 教行寺 |