愛媛県伊予市灘町・湊町 JR予讃本線伊予市駅から徒歩約6分 2010年1月14日(木)訪問 地図
郡中という呼び名は、松山藩から大洲藩の御替地になったときに、喜多郡・浮穴郡を郡内と呼んでいたため、この伊予地方を郡中と呼ぶようになったらしい。文化5年(1808年)8月、灘町・湊町・三島町が町の発展を背景に、これまでの米湊村・下吾川村の郷(村方)から独立することを幕府に認められ、自治による町政が始まったとある。灘町・湊町・三島町を合わせて郡中3町とも呼ばれている。郡中の名は、伊予鉄道の郡中駅、郡中港駅などにとどめているほか、郡中支店を名乗る企業名が見られる程度である。
この地が松山藩領から御替地になった寛永12年(1635年)の頃は、牛飼原(うしこがはら)とよばれる海沿いの荒地にすぎなかった。それが替地を機に、浮穴郡上灘村の宮内九右衛門・清兵衛の兄弟が願い出て移り住み、開発を遂げる経過をたどっている。灘町の名は宮内九右衛門の出所から名付けられている。
町並みは、伊予鉄道が走る西側2つ目の通りを郡中駅から郡中港駅(JR伊予市駅)までの、湊町・灘町辺りのおよそ800m位の通りの両側に展開している。家屋は切妻平入り漆喰塗込め虫籠窓を持った伝統的な商家が残っています。その中で最も建築年代の古い建物は、宮内小三郎邸で元文年(1738年)です。他にも江戸時代後期から明治・大正期に建てられた家屋が残されています。
宮内小三郎邸
町並みの南寄り、灘町3丁目交差点を南寄りに立っています。切妻屋根の上に入母屋破風の屋根を架けて格式の高い建物です。正面左側には袖卯建をつけています。宮内家は、この町の開拓者で町年寄りも務めていたので、藩主がお成りになることもあって、このような格式のある建物になっています。
家業としては総合的な商社として町の流通の中心的な存在でもありました。
山惣商店
この家屋もなかなか歴史を感じるものです。万延元年(1860年)に旅籠として建築された建物です。伊予駅をまっすぐ歩いてくると交差点の角に立っています。今は肥料などを扱う店になっています。建物は入母屋造りの平入り本瓦葺中二階塗込めの江戸時代の商家の典型的な建て方になっています。