長野県木曽郡上松町 JR中央本線上松駅 2009年8月20日(木)訪問 地図
上松は中山道の38番目の宿場。今回は37番目の福島宿を訪問した後、駅前からおんたけ交通のバスに乗って「木曽の桟」に寄り、そこからは徒歩で訪問した。
私の旅は、街道を歩くを目的としていないから、道中の中山道の記録は書きませんけれども、途中、平成の難所と呼ばれる、国道19号線の歩道のない500mほどの区間を、横を走り去って行く大型トラックの恐怖に襲われながら歩いたということだけを書いておきます。
上松の町は、宿場の北の入口の十王橋から上町、本町、仲町、下町と続いている。この町は、戦後の度重なる大火で焼失し、特に昭和25年の大火には、本町・仲町・下町などすべてを焼失したが、火災を免れた上町だけに江戸の面影を残している。それも、十分な保存をしている様子もないから、新しい建物に置き代わって行ったり、老朽化が進んだりしていて、事前に調べていた町並みの様子が確認できなくなっているものもある。
上松は過去にも現在も林業で栄えた町です。木曽5木(ヒノキ、サワラ、アスナロ、ネズコ、コウヤマキ)の集散地としての中心を担ってきた町です。宿場のはずれに、尾張藩上松材木役所跡があります。今は、上松小学校の校庭です。
上松の町はから少し行くと、立場茶屋のあった寝覚の集落がある。ここは、中山道でも「寝覚の床」と云う景勝の地があるところです。最近まで民宿を営んでいた「たせや」と当時はそば屋として営業していた「越前屋」が街道筋に立っています。
「たせや」さんのご当主にお話しをお聞きしました。ほんの数年前まで民宿をやっていたそうです。連れ合いを亡くされて廃業したということでした。
建物の軒はせがい造りと呼ばれる造りになっていて、これは、軒を深くして雨風の引き込みを避けるためのものです。妻籠宿では出し梁造りと呼ばれていますが同じものと思われます。土間に入らせていただいて内部の写真を撮らせていただきました。1階の店の間には囲炉裏が切ってあり、天井がなく太い梁などでできた小屋組みを見せています。柱や建具は煤で黒光りがして、幾星霜もの歴史が刻まれています。
今は使われていない部屋には、古い調度品などが詰め込まれています。階段を上がって2階の部屋もほんの少しだけ見せていただきました。街道を歩きながら、歴史的な建物に宿泊しての旅を続けると、当時の旅人の悲喜交々が感じられると思う。
「越前屋」さんは、たせやさんと越前屋さんの間の坂道を下ったところの国道沿いに現在もそば屋のお店を開いています。旧中山道沿いの建物は大正3年に建て替えられて、旅館を経営していたものです。こちらは現在は営業をしていません。
街道に残る宿泊所
この「たせや」さんのことから思い起こして、今までに見て来た町に残されていた、古い旅館についてここに書いておきます。
中山道赤坂宿の「大橋屋」さんは現在でも予約で1日に2組の宿泊を取って営業しているという。1711年の建築という旅館(当時の旅籠)です。
垂井の宿には「亀丸屋」がある。ここも予約を入れておくと宿泊が可能で、1777年(安永6年)に建てられたという建物です。
妻籠宿には民宿、旅館を営業している古民家が沢山あります、その中の「旅館松代屋」さんは創業が1804年と云う、もともとは木賃宿だったところです。この他にも「ふじ屋」「大亀石」といった民宿が何軒もある。これらは江戸時代からの古民家ではあるが、当時は旅人を泊めた施設ではなかったと思われます。
伊勢古市に「麻吉旅館」があります。この旅館は創業200年を銘打って今なお旅館をしています。天明2年(1782年)の古市街並図にすでに麻吉の名で出ているそうです。
中山道赤坂宿「大橋屋」 | 中山道垂井宿「亀丸屋」 | 中山道妻籠宿「ふじ屋」 | 伊勢古市「麻吉旅館」 |